2010年12月19日

余多字紹介 神戸移住の先駆者紹介

余多字紹介 神戸移住の先駆者紹介

【余多】(アーマタ) 〔世帯〕104〔人口〕235

知名町南東部に位置し、北東は和泊町、西は上平川・下平川
屋者、北は竿津に接し、南は太平洋に面する。北部を県道が
走り道路沿いに集落が集中する農業地帯。余多川があり、
水に恵まれ昔は屈指の米作地帯である。現在は基盤整備が
進み田圃の面影はなく畑が広々と広がっている。
島内で一番大きな余多川は、大山に源を発し余多の天竜橋を
はじめ6つの橋がある。天竜橋は大正7年に知名と和泊の
交通便をよくするするため総工費3,500万円で架橋された。
また余多川は尻無し川といわれ、字の洞穴に流れ太平洋に
流れる。

明治10年に余多学校が創設され、教育が熱心な字で多くの
先生を輩出し、島内はじめ、県外で活躍されてきたし、
現在も活躍されている。幕末からから維新にかけて私塾が
和泊町中心に広がる。余多の安田蘇泉翁と今栄民直翁の
二人が余多に塾を開いた。民直翁は「和」在住に遠島人の
紀平右衛門に師事し学問を修業し多くの子弟を育てる。
ここに余多の教育が始まっている。甲斐薫翠氏(元校長)
薫翠氏の長男甲斐不二男(元甲南高校校長・鹿児島市教育
委員長)、次男沖久教夫氏(元沖高・川内・錦江湾高校校長)
前東京沖洲会会長今栄貞吉氏(慶応大学名誉教授)ら
多くの教育者が出ている。

神戸余多会は昭和元年に発足、この時代前後に神戸沖洲会の
各字会が出来ますが、この貢献者に余多の今栄民平氏が
います。氏は大正6年八幡製鉄在職中、川崎造船所が
神戸脇浜に葺合工場開設(後の川崎製鉄)したとき派遣され、
それがきっかけとなり出身者の就職門戸が開かれる。
神戸沖洲会の歴史では、忘れてはならない人である。



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Posted by YOSHI at 12:59│Comments(0)余多
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